6月11日(火)「チャペル・アワー」

投稿日:2024.06.12  チャペル・アワー

聖書箇所:『新約聖書、マタイによる福音書6章25-34節』
 本日のチャペルは、日本キリスト教団 足利教会 牧師の望月麻生(もちづき あさを)先生をお招きしました。望月先生は、「普通(ふつう)」ということについて話し始めました。私たちは日常生活の中で「ふつう」ということに苦しめられることがあります。何かを頑張って成し遂げても「ふつうでしょ」と受け流されたり、「そんなこと出来て当然」とか、「当たり前だ」と考えられたら、非常に残念に思います。そんな時の「ふつう」は、あたかも、世の中の絶対的正義を得ている人から蔑まれているかのような冷たさがあります。
 同様に日常生活の中で、「忘れる」という事にも、苦しめられることがあります。確かに、何かを「忘れる」のは良いことではありませんし、辛く悲しく、失敗につながることが多いでしょう。私たちはどうしても、他者と自分を比較して、私はどうして「もの忘れ」をするのだろう、とか、私はどうして「ふつう」でいられないのだろう、と思い悩むことがあります
北米大陸のカナダに住むリスは、厳しい冬に備えた食料となる木の実を備蓄することで知られています。その時に食べる分だけでなく、自分の巣としている木のほこらや、地面にも穴を掘ってため込むのです。しかし、リスはそうした行動をとりながらも、そのほとんどを忘れてしまいます。忘れられた木の実は、他の動物たちの貴重な食料となったり、芽を出して樹木として育ったりするのです。リスは森を作ることを意識して実践しているわけではないでしょう。リスは、ただ「ふつう」に、木の実をしまっておいた場所を「忘れて」しまっただけなのです。しかし、その事は、どこか別のところで、何かに大きく作用していたのです。忘れられた木の実は、他者の助けとなり、長い目で見れば結果的に広大な森を形成する一因となっていました。望月先生はこの話を知ったときに、大変心が軽くなったのを感じたそうです。
 最後にこう語りました。「世の中には、多くの人が住んでいます。そして、それぞれの人に、その人だけが持つ神様からの賜物があります。全ての人に知られるわけではないけれど、素晴らしい面がかくされているかもしれません。先日の、6月9日(6月の第2日曜日)は、キリスト教会では「花の日礼拝」でした。これは、花も人も神様から命を与えられ、守られ、愛されていることを感謝する日です。私たちも、外見や印象だけで物事を判断する事なく、皆が全ての人に花を捧げられるような、そんな、素敵な対応ができるようでありたいと思います」望月先生は、教会附属の幼稚園の園長先生も兼任しておられます。そのためか、特別に難しい言葉や話題を使うこともなく、誰でもすぐに実践できるやさしさを、さりげなく語ってくださいました。本日はありがとうございました。