1月14日(火)『新島襄召天記念チャペル』
投稿日:2025.01.21
奨励者:同志社大学キリスト教文化センター准教授 李 元重
聖書:ヨハネの手紙一4章7~12節 説教題: 【 愛をもってこれを貫く 】
皆さん、おはようございます。今日のような場合は、初めましてが良いのか、お久しぶりですが良いか良くわかりませんね。同志社大学キリスト教文化センター准教授の李元重です。でも、去年まで今臂先生の仕事をしておりまして、群馬で京都から来る奨励者のお客さんを迎えておりました。1年の間、逆の立場になるのは、中々稀な経験だと思います。未熟なわたしを招いていただいて心から感謝しております。1年生の皆さんには初対面ですが、2年生の皆さんとは再会ですね。この時間を心待ちにしておりました。
今日の説教題は、「愛を以てこれを貫く」としました。新島襄は、1886年5月、同志社の分校として、宮城英学校の創立のために仙台に行きました。この写真は、宮城英学校が東華学校として名称を変更したときの写真です。この学校は5年後に閉校してしまいましたので、あまり知られてはいません。しかし、その時新島が仙台教会(今の日本キリスト教団東一番町教会)の礼拝で行った説教は残っており、今日の奨励題は1886年5月30日の説教題からお借りしてきました。そこで新島はこのように言っています。「キリスト教は何か」と人から問われたら、わたしはこう答えることができる。『愛をもってこれを貫く』ことだと」。
この言葉の意味は、どのようなものなのでしょうか。実は、皆さんにとって「愛」とは、そう難しい概念ではないし、皆さんが初めて聞く言葉でもないと思います。小学生や、もっと幼い子どもでも言葉が分かれば「愛」はわかります。新島襄は、キリスト教のことを単に「愛」だと語るより、「愛をもってこれを貫く」と言ったのです。実は、そこにキリスト教の愛の特別性があり、新島は日本人として、聖書が教えるキリスト教の愛の特別性を上手く表したのだとわたしは考えています。
ではキリスト教の愛の特別なところとは何なのでしょうか。わたしの授業を聞いたこのある二年生の皆さんのは覚えているかも知れません。聖書が語る神の愛のことを、ギリシア語ではagape(アガペー)といいます。実は、「愛」とか「好き」に当たるギリシア語は、色々ありまして、eros, philia, storge, agape(エロス、フィリア、ストルゲー、アガペー)などがそれです。それぞれの独自な意味や使い方がありますが、それを語り始めると、とても長くなり、皆さんが寝てしまうかも知れません。今はやめておきますが、最も重要な一つだけ話します。アガペー以外の言葉エロス、フィリア、ストルゲーは、「愛らしいもの、愛に値するものを愛する」という意味です。一方で、アガペーは、「愛らしくないもの、愛に値しないものさえも愛する」という意味なのです。皆さんにも好きな人がいると思います。たとえば友達だったり、恋人だったり。私はインスタグラムをやっていますが、わたしがフォローする多くは学生です。学生の皆さんが投稿する内容を見ていると、友達と遊びに行ったり、恋人とおいしいものを食べたり、あるいは面白い内容など、そのほとんどがかわいらしいものです。そのような人や出来事、ものや場所を愛することは、さほど難しくありません。それらに対して、愛を貫くという感情は必要ありません。それらには自然と愛情が湧いてくるものです。例えば、カッコいい人、美しい人に出会ったら、自分ももうちょっと綺麗にしたい、可愛くしたい、いい格好をしたいと思いますよね。愛らしいものを愛すること、かわいらしいものを好きになるのは、誰にでも無理なくできます。そうした人やもののためならお金をいくらでも使うこともあり得ます。しかし、そうではない人やものを愛し、大切にすることはそう簡単ではないと思います。はじめは何とか我慢をして愛そうとしたり、大切にしようとしたりしても、時間の経過や、つらくて嫌な経験が重なることでそれらはどんどん遠くなってしまうでしょう。日本語で、「貫く」という言葉は、「端から端へ通す」、「始めから終わりまで成し遂げる」という意味ですね。最初から最後まで、愛し続けること。それがアガペーの意味する愛であす。新島は、キリスト教の愛は、誰に対しても、何に対しても愛を貫くものであると言ったのです。新島が語る、神の愛の決定版、最終版、ゲーム用語でいうと「ラスボス」みたいな出来事とは、イエスの十字架の死でしょう。聖書によると、イエスの十字架の死は、人間の過ち、弱さ、憎み、無関心、嫉妬、怠惰、神への無知、浪費、貪欲、無知などあらゆる罪を赦すもので、まさに神の愛の塊なのです。それは、人間の罪に対して、神が人間を罰するのでなく、自らその罰を受けることで、これこそが「神の愛、アガペー」です。神は、正義の神ですから、悪に対してそれを見逃すことは出来ません、罰しないといけないのです。そのため神は、人間に対する愛のゆえに、人間を罰することでなく、神ご自身でその罰をお受けになったのです。
新島襄の教育を語る時、よく語られる話しに「自責の杖」の話しがあります。同志社英学校が創立されて間もない1879年に学生数はとても少なかったのでした。そのため一度募集をしてから三か月後に再度募集をしたのです。始めから入学していた学生を上級組、途中から入学した学生を下級組と分けて授業を行っていました。しかし、別々に授業を行うのは効率的ではないと判断した教師会は、生徒数の少なかった二年生の上級組と下級組を合併して授業を行うことを決定しました。この決定に納得のいかない上級組は、授業をボイコットするという抗議行動を起こしました。これらは新島が伝道活動で学校を留守にしている間に行われました。伝道活動から戻った新島は、二年生の上級組に対し授業にでるよう説得を試みます。最初は拒んだ二年生上級組は、4月7日「御伺書」という質問状を出します。それが受け入れられない場合は、授業に出ないという内容のものでした。新島は、それを読んで、改めて学生と話し合いました。上級組の学生は新島の気持ちを理解しましたが、次に自分たちの希望を記した「嘆願書」を出しました。授業には出席するとしましたが、それなりに自分勝手な要求もあるものでした。しかし、その要求は学校としては受け入れることができなかったので、新島は「御歎願之筋難聞届御座候」と書きつけ、その要求を拒みました。その結果、ようやく学生たちも授業に出席するようになりました。しかし、もうひとつの問題が残っていました。それは、授業を無断で欠席してはならないという同志社の学則を破った件と、教師会の決定に対して一方的に反抗した学生に対する処分の問題です。学則に違反した学生を処罰すべきだとの声があがったのです。学則違反の処罰をめぐり思い悩んだ襄は、1880年4月13日朝の礼拝で壇上に立ちます。その時の新島の行動について、現場にいた学生の一人、堀貞一は次のように報じています。
「先生自ら若し我にして、今少し行届きたる方法をとりしならば、彼等は斯の如き事をせざりしならん、又我輩は出来るだけ説明もし、説諭をしたが、これに服さなかったのは、彼らが過(アヤマチ)ではなく、我校長たるの徳の欠けたるためである。されば彼らの過は我〔の〕不行届と不徳の結果である。されば如何でこれを処罰することが出来やう。されど同志社の規則は儼然たるものである。よって自ら校長を罰し、生徒に代って学校の規則の重んずべき事を知らしむべきだと御決心になって……(堀貞一著『新島襄先生に就て』p.32)
新島は、右手に持っていた杖で、突然自らの左手を叩き始めたのです。何度も何度も激しく打ちつけたことにより、新島の手は腫れあがり、杖は二つに折れ、やがて三つに折れ、破片が飛び散りました。上原という生徒がすがり、泣きながら自責を止めるよう懇願します。すべてが終わってから新島の自責に感銘を受けた生徒のひとり堀貞一は、折れた杖を拾い集め自分の宝物として大切に保管していました。この写真は、授業をボイコットした上級組の学生たちが、後ほどその自責の杖と一緒に撮った写真です。この写真を撮ろうとした生徒たちはどのような思いだったでしょうか。また、皆さんはどのように思いますか。この「自責の杖」はのちに同志社で管理され、現在は新島遺品庫に保管されています。校則を無視して自分勝手に行動した学生たち。彼らの生意気な願いを簡単に無視したりはしない新島襄。一方で自分の不在の時の教師会の決定と校則は守らなければならない。新島は、学生たちが受けるべき罰を自ら受けることにしたのです。これこそ、校長として学則を尊重しながら、学生ひとり一人に対する愛を貫いた新島の愛であり、その愛はキリスト教の愛の実践であったと、わたしは考えています。皆さんは、そうした教育者である新島襄に名乗った学校、新島襄の教育理念と精神を実現しようとする新島学園短期大学の学生としてここにおられ、その精神を学んでいるのです。わたしも皆さんと同じく新島について学んでいるものの一人として、皆さんも『愛をもってそれを貫く人生』を生きることをお勧めします。
では、どのようにしたら、愛をもってそれを貫くことができるのでしょうか。まずは、愛をもって生きるという決断と実行です。愛は素晴らしいことについては誰も疑問を持ちません。でも、愛は簡単には見つからないものです。その理由は、愛を貫くより、都合に合わせて愛したり、愛しなかったりするほうが、ずっとやりやすいからです。では、こうした、都合の良い愛とは、本当の愛でしょうか。少なくともキリスト教的な愛ではありません。今から、わたしたちが、愛をもってそれを貫く人生を生きると決断し、それを実行して行けば、わたしたちの人生は確かに変わります。でも、危機は必ず訪れるでしょう。しかし、果たしてそこには本来の意味があるのでしょうか。愛よりも、お金や、良い仕事、欲望を満足させるものの方がもっと説得力があるかも知ませんし、愛を実践した選択にも失敗が伴うかも知れません。そこで、皆さんに大事な二つ事をお知らせしようと思います。
それは、まず『愛には永遠の価値がある』ということです。なぜなら神が愛だからです。キリスト教の神は永遠の存在といいます。永遠に生きる神が愛の神ですので、愛を貫く行動は永遠の価値を持ちます。もちろんそれは見えません。しかし、愛の行動によってわたしたちは永遠の価値を共有することができます。もう一つは、『皆さんは、愛されている存在である』ということです。二年生の皆さんには何回かお伝えしたことがあるので、覚えているかも知りません。もう一度言います。『皆さんは、愛されている存在なのです。』それは実感できないかも知れません。しかしこれは感覚の問題ではなく事実なのです。わたしたちは普段、空気の存在を意識していません。しかし、空気がなければ人は生きることは出来ません。空気の存在は事実です。人間が神に愛されているのは、そのようなものであり、実感をしていないかれど、それは事実として存在しているのです。
キリスト教の十字架とは何か!これは、神が人間を愛している、その神の愛の証拠に間違いはありません。皆さんはもしかしたら、自分はあんまり勉強ができないし、能力も無いし、見た目もたいしたことない。とか、自分は失敗や過ちが多い、わたしは誰にも認められていない。それなのに、私は愛されているのだろうか?と思うかもしれません。しかし、キリスト教の本質とは何なのかを考えてみてください?それは、愛をもってそれを貫くことです。その愛とは、神の愛。つまり、神は皆さんの誰に対しても、皆さんにどのような経験があるにしても、愛をもってそれを貫く。最初から最後まで愛を成し遂げる、お方です。だからまず、皆さんも自分を赦し、自分を大切にしてください。皆さんだけでなく、周りの人々も、またこれからの人生で皆さんが出会う人々も大切にしてください。最後に今日の聖書箇所をもう一度読みます。
【 愛する人たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれた者であり、神を知っているからです。愛さない者は神を知りません。神は愛だからです。神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する人たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちの内にとどまり、神の愛が私たちの内に全うされているのです。 】
短大の2年間は本当に短いです。実は人生もそれほど長いものではありません。私たちは、愛するにも時間が足りません。私たちがどのような職業につこうが、収入がいくらあるかだとか、肩書がどうだと言ってみたところで、何の価値があるでしょうか。世の中で最も価値があるものは愛を貫く人生です。皆さんがこの2年間、神の愛を知り、またこれからその愛を貫く人生を生きるなら、皆さんの人生は永遠に祝福されたものとなるでしょう。