11月5日(火)「チャペル・アワー」
投稿日:2024.11.06
聖書箇所:『新約聖書、ヨハネによる福音書8章1-11節』 題:「本当に大切なこと」
楠元桃先生は、新島学園中学校・高等学校の卒業生、現在は同学園の宗教部長(チャプレン)です。本日は、普段接している中学校・高校の生徒の皆さんより、ちょっと年上の短大生へ向けたお話しです。昨今、話題になることも多い理不尽な校則の事を、「歩きスマホの問題点と、その指導方法」を話題として語りました。「本当に大切なこと」と題された奨励は、物事の本質を考えることが重要だと考えさせる内容でした。
【学内でのスマホの所持・使用には一定のルールがあります。しかし、学外や登下校時は適用外のため、歩きながらスマホを使っている生徒は非常に多くいます。他の人にぶつかったり、何かにつまずいて転んだという事例もあり、交通事故の可能性も高くなります。そのため、ルールの適用を学外にも広げるべきだ、という意見を聞く事もあります。確かに罰則で禁止をすることは、一定の効果を生むかも知れません。しかし、その事は正しい問題解決に繋がるでしょうか。
「決まりなのだから、ダメなものはダメ」という理屈は、果たして学生や生徒のためのものでしょうか。指導する側を守る、ルールのためのルールになっていないでしょうか。ルールで縛り付けることの危険性は、生徒が考え、成長する機会を奪う事にあります。本質的には、「歩きスマホの危険性を生徒自らが理解して、やらないようになること」を、教え導くことこそが正しい方法なのではないでしょうか。
本日の聖書は、「姦通の女とイエス」と題される有名な箇所です。ここは、律法学者がイエスを試すために、罪を犯した女性を石打ちの刑に処すべきか、と詰め寄る場面です。イエスは 「あなたがたの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と語ります。結果的には、そこにいた群衆の誰も石を投げずに立ち去るのです。このお話は、「誰もが罪を犯したり、失敗することがある」という本質に、そこにいたすべての人々が気づいたことを示しているのではないでしょうか。
確かにルールや決まりは大切なもので、こうしたものが無ければ生活が成り立たないこともあります。しかし本当に大切なことは「やみくもにルールにあてはめるのではなく、自らが考えて答えを出すこと、ルールに縛られないようにすること」にあると思います。旧約聖書の出エジプト記には「十戒」について書かれています。これは、人間が根本的に戒めるべき十の決まり事です。実は聖書には、「十戒」について書かれている箇所は二回出てきます。一度目は、人がその決まりを守れず、旧約聖書の指導者モーセが、神さまからいただいたその「十戒」の示された板を砕いてしまいます。しかし、神さまは決して私たちを見捨てたりしませんでした。再度モーセに、「十戒」の書かれた板を、手渡してくださったのです。人は誰しも過ちを犯すことがあります、しかし、反省して改めることが出来るのです。神さまは私たちを愛し、慈しみ、その過ちを許してくださるという事を強く信じています。】
その話題が実践現場から来るお話しは、具体的で分かりやすく、心に染みこんできました。楠元先生貴重なお話しをありがとうございました。