1月23日(火)『新島襄召天記念チャペル』
投稿日:2024.02.16
新島襄召天記念礼拝としてのチャペルアワーに、同志社大学名誉教授である水谷誠先生をお招きしました。水谷先生は同志社大学神学部教授、キリスト教文化センター所長、神学部長、神学研究科長、学校法人同志社の理事長とまさに要職を歴任されています。今回は「良心について」という題でお話しくださいました。
新島襄は「良心」の語句を非常に大切にしていました。有名な言葉として「‥良心の全身に充満したる丈夫の起こり来たらんことを‥」というのがあります。この句の書かれた石碑は「良心碑」と呼ばれています。米国の2つを含み世界に9つあり、新島学園中学校・高等学校の正面玄関前にもあります。新島襄の言う「良心」は「conscience」の訳だと言われています。conscienceは、ラテン語やフランス語の古語で、接頭語のcon と science が結びついたもので、本来は「共通認識、他者と一緒に何かを知ること、認識」のような意味です。つまり「良い」のような「善悪」を示す意味はありません。そのため、「conscience」を「良心」と日本語の概念としてとらえるのは少々難しいのかも知れません。水谷先生は、法律と宗教の成立や、合理主義的な考え方と、理性的な考え方などを引き合いに出し、『本来の自分』と『理性で制御された自分』とを例示して語りました。
「何かを決断するときには、どちらを選ぶか悩み葛藤し、心の揺れを感じながら折り合いをつけて行きます。この時には、違った考えを持つ双方の自分同志が相談し、互いに影響し合い、引き合ったり反発し合ったりしながら決定を下しています。こうしたプロセスを繰り返しながら、成長して行くものなのです。」「キリスト教的良心とは、神様からの答えを期待しながら質問をし、神様ならどう考えるか、そのためには自分はどう行動するかを自ら考えて答えを導く行為です。」「孟子にも『仰いで天に愧(は)じず、俯して地に愧(は)じず』というのがあります。本日の聖書箇所は旧約聖書、箴言9章10節『主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め』と教えています。」「自身の選び取った道を後悔しないで欲しい、通り過ぎてから歩んできた道を思い意味のあるものとしたり、これからの歩みを意味のあるものにするのも自分自身です。同志社大学と志を共にする新島学園短期大学の皆さん、今はまさに青年期です。多くの葛藤のあるこんな時こそ、神様との対話を試みて欲しい。そうした取り組みこそが『良心』なのです」と語りました。
水谷先生ご自身が青年期に親しんだ2冊の本、(『何でもみてやろう』小田実)、(『どくとるマンボウ青春期』北杜夫)を例に挙げ、抽象的な内容も具体的で分かりやすく解説し、なおかつ非常に深い内容のお話しでした。新島襄召天記念礼拝にふさわしく、新島襄の思想に触れる素晴らしい学びの機会となりました。