2025年6月3日(火)「English Chapel]
投稿日:2025.06.03
聖書箇所:「New Testament, The Gospel According to Matthew 6:6 」
「新約聖書、マタイによる福音書6章6節」
本学では、春学期・秋学期にそれぞれ1回ずつ「English Chapel」を行います。奨励はもちろん進行も全て英語でなされ、賛美歌も英語で歌います。本日の、リチャード・マハー先生による奨励は、【‘Private Prayer’/ 「個人的な祈り」 】と題されたものでした。
私はとても信心深い、カトリックのクリスチャンホームで育ちました。カトリック系の小学校、中学校、高校に通い、大学もカトリック系の学校に進学しました。そのため、食前のお祈りや、毎週末のミサに行くことも当然のことでした。大学を卒業し、大人になってからも毎週末はかかさず教会に行っていました。学生だった時などは、学校の授業でミサに行くこともありました。新島短大のチャペルの時間は、本人の意思を尊重しています。必ずしも出席しなければならないというものではありません。しかし私は、できることなら出席する方が良いと考えています。
クリスチャンにとって、「教会に行くこと」は大切な信仰の一部です。なぜミサやチャペルに出席することがクリスチャンにとって重要なのでしょうか。その理由の一つは、多くのクリスチャンは他の人たちと一緒に祈ることを「楽しい」と感じるからだと思います。こうしたグループでの祈りはキリスト教の重要な部分です。それなので新島短大でも、教授会の始まりとか、特別な行事の前などには必ずみんなでお祈りをして、それから行事が始まるのです。本日の聖書箇所、マタイによる福音書6章6節は、キリストの重要な教えの一つとして語られる部分です。ここでは、「祈り」をするために、わざわざ教会や礼拝堂、寺院に行く必要はないと教えています。キリストは、祈りは個人的なものであって良いのだと教えているのです。では、本来の「祈り」とはどのようなものか考えてみましょう。
私は「祈り」とは、【神様と私個人のコミュニケーションである】と考えています。だから必ずしも、目を閉じたり、頭を垂れたり、手を組んだりする必要もないのです。もちろん特別な言葉を口にする必要もないのだと思っています。キリストのメッセージは、『人は誰でも、それぞれ自分のやり方で、神様と直にコミュニケーションが取れるのだ』と伝えているのです。祈りは、神様と自分自身の間の秘密であり、他の人に知らせる必要はありません。祈る場所も問いません、チャペルでも、電車の中でも、教室でも、どこででも神様と直接交信できるのです。大切なことは、人間である自分よりもはるかに大きな存在と、直接コミュニケーションがとれるということなのです。そしてそれは、神の声に耳を傾けることでもあるのかもしれません。
私は早朝の散歩の時にお祈りをするようにしています。もちろん、他の誰かと一緒に祈るのもいいでしょう。ともかくキリストは、私たちが「祈りをする」ことを望んでいるのだと思います。キリストは、人はそれぞれどんな方法でもいいからとにかく自分だけの方法で祈るのだと教えているのです。私は、誰にでも自分独自の祈りのスタイルがあると考えています。皆さんもまずは、その「祈り」を試してみてはどうでしょうか。マハー先生、本日は「祈り」についての解き明かしをありがとうございました。